アフターコロナのイギリス社会:3人の英首相スピーチ(ジョンソン、サッチャー、チャーチル)

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Boris Johnson

イギリスではジョンソン首相が新型コロナウイルスに感染しましたが、隔離中にビデオで国民に送ったメッセージで彼が語った’There really is such a thing as society.’ という言葉が印象的でした。これはかつて「鉄の女」と言われた前サッチャー首相が言った言葉のもじりなのですが、ご存じない人もいるかもしれないので説明します。

マーガレット・サッチャー(1925‐2013)

サッチャーは1979年から1990年まで首相を務めた保守党政治家です。1960~70年代に「英国病」と呼ばれたイギリスの経済停滞が戦後の労働党政権の国有化や福祉政策による財政難や生産性の低下のせいだと主張しました。この問題を解消するために、新自由主義のもと民営化や構造改革を導入、社会福祉を切り捨てる緊縮財政で「小さい政府」を目指しました。のちにこのような政策は「サッチャリズム」と呼ばれるようになりました。

この構造改革でイギリス経済は立ち直ったようでもあるし、無理やり閉鎖した炭鉱地域に日産やトヨタなどの産業を誘致するのにも成功した貢献を認める人もいます。でも「鉄の女」と言われるように、強引に福祉を切り捨て、地方自治体や労働組合を骨抜きにしたり、民営化を進めたやり方については未だに強い反感を持つイギリス人が多いのです。

そんな彼女が1987年のインタビューで語った言葉がこちら。

“There’s no such thing as society.”

「社会なんていうものは存在しない。」

この言葉は個人主義や自己責任といった彼女の政治信念を物語る言葉として有名になり、この時代の歴史について書かれた本のタイトルにも使われたほどです。

サッチャーは自分では努力せず何でも政府に頼ろうとする国民に対してこの言葉を投げたかったようです。彼女自身が非エリート階級で、自分の努力で成功したということもあり、他の人もそうすべきだと考えたのです。

けれども、彼女はそれまで弱者を支え続けてきた福祉制度を切り捨て、自由という名の過酷な競争社会で社会格差を広げたという見方をする人もいます。

また「社会」より個人や家族を重んじたサッチャーの政策により、コミュニティが崩壊し助け合いの精神がなくなって自己中心的な社会になったと指摘されることもあります。

ボリス・ジョンソン(1964‐)

ボリス・ジョンソンは有名私立校イートンからオックスフォード大学に通ったエリート階級出身です。大学卒業後はジャーナリストとして働き、ブリュッセルで反EU的な記事を多く書いていました。

その後、政治家に転向し2008年から2016年までロンドン市長を務めました。そのあとは保守党国会議員を務め、メイ内閣で外務大臣となり、2019年には首相に選ばれました。

政治的にはEU懐疑派の保守党路線であったことは一貫しているようですが、ロンドン市長時代はかなりリベラル寄りの意見を表明していた感があります。ロンドンは国際色も強くリベラルな人が多いからという理由だったのかもしれません。

彼を見ていると、どうもその時の状況に応じて人気取りのために意見を変える「風見鶏」的なところがあるようです。政治家にしては珍しくファーストネームで「ボリス」と呼ばれ、ぼさぼさ頭で道化師的な言動をするのも、エリート臭をカモフラージュするための演技なのかなと思います。

そのおかげでエリートの保守党議員なのに非エリート階級にも人気があるというのが彼が保守党リーダー(=英首相)に選ばれた大きな理由です。

保守党の他の議員はみなエリート臭が強すぎて労働者階級に反発を持たれるから選挙に勝てないのです。2019年の総選挙で、これまで労働党支持が多かった地方選挙区でも保守党が票を集めたことがそれを物語っています。

そんなボリスは首相の座に着くやいなや、反対する議員を追放までして強引にブレグジットを押し通しました。その後も右派的な政策をどんどん推し進めていくのではないかと思われていました。

たとえば、イギリスのNHS国民医療サービスは誰でも無料で医療サービスを受けられるというものです。ジョンソン首相は経済的に余裕のある人まですべて無料で利用できるというのではなく、払える人には医療費の一部を負担してもらうようにすべきだと提言して、野党や国民からNHSをつぶす気ではないかと警戒されていたのです。

彼こそはサッチャーの、頼れる社会などはないのであり、自分(と自分の家族)のお金で生きていくべきという考え方を信奉している政治家ではないかという感じがしていました。

もともとイギリスの保守党は右派であり、日本で言うと自民党に当たると言ってもいいでしょう。小さい政府を目指し、自由市場経済に任せる方針です。

とはいえ、イギリスの保守党トップは先祖代々エリートだった人が多いせいか、ノブリスオブリージュ精神が強く、トップに立つものは国全体を守る責任があるという自覚もあります。

だから彼らは持たざる者、困窮しているものには手を差し伸べる社会福祉政策にもチャリティーにも熱心であり、その政策じたいは日本では共産党が支持するようなものもあります。まあ、ヨーロッパ諸国は概してそうなのですが。

その中でも英保守党は右寄りだったのですが、新型コロナウイルスがイギリスにやってきてから、一気に右端から左端に移動しました。

前にも紹介しましたが、イギリス政府が発表したコロナ経済政策は、何かにつけて政府を批判する野党も労働組合さえも概ね満足するものでした。

解雇を防ぐために従業員の給与の8割を政府が支給し、フリーランス・自営業者にも通常の収入の8割を支給するというもの。さらに、コロナによる経済的打撃を受けている企業に助成金や無利子のローンなどの経済的支援を提供しています。

さらに、政府はこれまでの緊縮財政で長年の財政難に陥っているNHS医療サービスを強化しコロナと戦うために様々な施策を発表、実行しています。

私立医療機関の空きベッドなどの施設をNHSが使用することを要請したり、コロナの重症患者に必要となる人工呼吸器をダイソンやロールスロイスなどの工場に製造するように注文したり、ロンドン、バーミンガム、マンチェスターの展示会場に大規模なコロナ患者用緊急病院を大急ぎで作ったりといった具合です。

さらにNHS人員を増強するために、すでにリタイアした医療スタッフに職場に戻るように呼び掛けたり、NHSを背後でサポートするヴォランティアを募集したり、コロナ患者用緊急病院のスタッフとして、航空会社クルーを雇用したりなど、ありとあらゆることをしています。

首相のコロナ感染

イギリスでは、コロナと戦うために身を挺して働いてくれているNHS医療スタッフ全員に全国民が拍手を送ろうという呼びかけがあり、3月26日の夜8時、イギリス中の国民が玄関先や窓、バルコニーから拍手をするイベントがありました。

ジョンソン首相も首相官邸の玄関で拍手をする姿が報道されていましたが、それが彼が国民の前に実物の姿を見せた最後でした。その翌日、彼は新型コロナウイルスの症状が出たため検査を受けたところ、陽性だったという発表があったのです。

ハンコック保健相もテストで陽性、コロナ対策をリードする主席医務官もコロナ症状が出ており自己隔離ということなので、コロナ感染拡大防止政策を議論する会議での感染かもしれません。

「社会は存在する」発言

そんなジョンソン首相が自宅待機中3日目に国民にビデオメッセージを送りました。熱っぽいのか疲れているのか、心なしかぼさっとした様子(いつもそうであるという話もあるが)で、国民に「みんなで団結してコロナと戦おう」というものでした。

リタイアしたNHS医療スタッフが2万人も職場復帰してくれたことや、ボランティアの募集に75万人もの国民が申し出てくれたことを紹介したあとに、彼は言ったのです。

“We are going to do it, we are going to do it together. One thing I think the coronavirus crisis has already proved is that there really is such a thing as society.”

「私たちは一致団結することで、コロナと戦うことができる。
コロナウイルス危機が証明してくれたのは、社会というものが存在するということだ。」

サッチャリズムの「小さい政府」を目指して緊縮財政を続け、NHSを売り飛ばしてしまうのではないかと警戒されたジョンソン首相がこんなことを言うなんてと耳を疑いました。

彼がコロナ危機を前に挙国一致の「演説」をするに至った陰には、彼が敬愛するチャーチルの影響があるのかもしれません。

チャーチルの”We shall fight”

第二次世界大戦中の1940年夏、ヨーロッパ諸国がのきなみドイツに占領され、フランスは降伏寸前、イギリスも敗北するだろうと思われていた時、当時の英首相、チャーチルは国中を鼓舞するように演説しました。

“We shall go on to the end..We shall fight.. we shall never surrender..”

「私たちは最後まで戦う、決して降伏しない。」

チャーチルはこのように英国がドイツと戦い続けることを誓ったのです。

今、イギリスが戦うという相手がEU(欧州連合)だとジョンソン首相が言ったら、イギリス国民の半分は支持しません。でも、コロナと戦うというのならイギリス国民で反対するものはいないでしょう。

挙国一致で戦うということでは、コロナはイギリス国民全員に共通の敵を作り、ブレグジットで分断された国を一つにまとめるという「功績」があると言ってもいいのです。

チャーチルがイギリス中の支持を集めて第二次世界大戦の危機を乗り切ったように、今回もジョンソンが国民の支持を後ろ盾にしてコロナ戦争に向かうということなのかもしれません。

直近の世論調査でも保守党、およびジョンソン首相への支持率は72~73%と上がっています。
この度、党首を退く野党労働党のコービンは最近の政府の社会主義ぶりを評し「私がずっと言い続けてきたことを今の政府がやっている。私が言ったことが正しかったことが証明された。」と言ったほどです。とはいえ、彼の後継者が誰になるかなど、もう国民はちっとも関心がない様子ですが。

コロナ戦争のあとは

イギリスでは、奇跡的な新薬やワクチン、何らかの予防法が開発されない限り、新型コロナウイルスとの戦いは2年間は続くと言われています。この長い闘いを挙国一致で戦ったあとも保守党の社会主義的な政策は長期的に続くのでしょうか。
そうだとしたら、もう野党労働党はお呼びでないことになってしまうかもしれません。

けれども、コロナ戦争で経済的、社会的、精神的に疲弊しきったイギリス国民は、新しい時代を再建するためには労働党を選ぶかもしれません。第二次世界大戦後1945年の総選挙で戦争を勝利に導いたチャーチル保守党よりも、戦後再建のための福祉政策をうたったアトリー率いる労働党がイギリス国民に選ばれたように。

戦後の労働党政権は「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれた社会福祉政策や基幹産業の国有化、NHS国民医療サービス、大規模な公営住宅建設、開発権の国有化を盛り込んだ都市計画制度など、あとで考えれば革新的と言える社会主義政策を導入しました。
挙国一致で長い戦争を戦い抜いて国が一つになっていた当時だからこそ、できた政策だったと思います。それを物語るように、その当時の政策の多くはその後の政権により廃止されたり、骨抜きになったりしてきました。唯一何とか残っているのがNHS国民医療サービスと都市計画制度くらいなのです。

サッチャリズムの保守党だけでなく、労働党でさえもブレア時代からは「ニュー・レイバー」という新自由主義政策にうつっていきました。まあ、そうしないと政権が取れなかったというわけなのですが。それで労働党左派コービンはついに選挙に勝てないままで終わったのです。

けれども、今回ウイルスという共通の敵が現れたことで、私たちはこれまで予想もできなかったような体験、そして人生や社会に対する考え方を持つようになっています。これまで大事だと思っていたこと(例えばお金や名声など)が実はあまり重要ではなく、それよりも命や健康、家族や友人など大切な人々と平和に過ごせることや見知らぬ他人と街ですれ違うことなどに幸せを見出すようになるのではないかと思います。

そうして長いコロナ戦争を戦ったあとは、イギリスには、そして世界中に、お互いを思いやる気持ちが満ちた、新しい社会が生まれるのではないかと想像しています。

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