イギリスにはロンドンという大都市があり、経済や産業活動の中心となっていますが、何もかもがロンドンに集中しているわけではありません。ロンドンは国際都市として国際的な金融や貿易の中心としての役割を持ちますが、そうでない企業や組織は地方にも多く存在しています。それは、自然にそうなったのではなく、イギリス政府がそうなるべく法律や制度を整えてきた結果なのです。
産業と雇用の再配置
イギリスの都市計画が産業革命以降の都市過密問題から制度化されたことは紹介しました。イギリスでは、都市計画に関連する法律や制度は政府が決定、整備していますが、個々の都市計画の実践は地方自治体が行っています。けれども、国全体で考えなければならない問題は政府が主体となって指導実践してきました。そのうちの一つが産業や雇用の地域的アンバランスを是正する取り組みです。これは第2次世界大戦前から検討されていて、戦後になって本格的に実施されるようになりました。
まず、貧しい地域に産業を誘致するために1934年Social Areas Act 1934 社会地域法が制定されました。この法律では、全国で、経済低迷が特に顕著な地域を特別地域(Special Areas)に指定して、財政援助を導入することによって産業と雇用を誘導しようとしたのです。この地域には南ウエールズ、ニューキャッスル、グラスゴーなど、産業構造の変化により地元の経済が圧迫され失業率の高い地域が指定されました。1940年に発行されたバーロウ・レポートも、国内の産業再配置を進めることにより地域格差を是正することの必要性を説いていました。しかしながら、戦中は政策を実行に移すことが難しい状況でした。
援助地域指定
第2次大戦が終わった1945年に新たに産業配置法 Distribution of Industry Act 1945 が制定されました。この法律は1934年の社会地域法の方針に沿うもので、それまでの特別地域を援助地域 Assisted Areaとして継続的に指定しました。また、都市インフラ設備、企業の新規設備投資への低利融資、減税措置などを導入して企業誘致のインセンティブを与えました。1946年から49年にかけて毎年平均930万ポンドの国家予算が援助地域への産業誘致目的のインフラ整備などに使われています。この予算は工業用地造成、交通、住宅、生活インフラ施設の整備などにあてられました。
政府の援助は経済的なものだけにとどまらず、大都市からの企業誘致のための様々なサポート体制が導入されました。1963年にはオフィス設置局 Location of Offices Bureauが設立され、都市からの産業・雇用分散を促進するための企業組織の移転をサポートする役割を担いました。この機関は都市からの移転を検討する企業や組織に、移転や新規採用費用、オフィス賃料など様々な情報を提供。また、労働市場調査や各地の不動産状況をはじめとするリサーチも行い、その情報を誘致企業・組織に提供する役割も果たしました。たとえば、1966年に同機関が行った労働市場調査によると、53%の通勤者がロンドン市内よりも自宅に近いところで働くのを希望していると報告しています。
オフィス設置局の活動は60年~70年代を通じて継続され、1980年初めにサッチャー首相が廃止するまで続きました。このような政策の結果、1963年から69年までの間に年間24,000の雇用がロンドンから他地方に移りました。
政府による産業開発規制
上記で紹介したインセンティブと並行して、都市の過密を緩和するために都市部における産業開発の規制も行われました。援助地域以外に、5,000平方フィート以上の産業用建築物(工場や倉庫など)を新築、または増築する場合、産業開発許可 Industrial Development Certificateと呼ばれる許可を得なければならなくなったのです。開発許可は政府の貿易省 Board of Trade が検討のうえ、決定する権利を持ちました。言い換えれば、大規模の産業開発を行うにあたって地方自治体と中央政府の両方の許可が必要になったということです。それまでイギリスでは自由経済の原則で産業立地が行われていたのですが、ここで初めて政府介入によって規制されるようになったのです。
この規制は当初は工場や倉庫などの産業用建築物に限られていましたが、労働党政府によってさらに強化され、オフィスの開発にも適用されることになりました。1965年産業オフィス開発規制法 Control of Office and Industrial Development Act 1965 により、5000平方フィート以上のオフィススペースを開発する際にはオフィス開発許可 Office Development Permitが必要になりました。こちらも政府貿易省 Board of Trade が許可の決定権をもちました。この試みははじめ、メトロポリタンロンドン地域だけに導入されましたが。その後イングランド南西部と中部(バーミンガム、ミッドランズ、サウスイースト、イーストアングリア地域全域)に拡大されました。
このような法律が導入された実際の結果はどうだったのでしょうか。法律が導入された当初の1965年から66年にかけて都心におけるオフィス開発申請が認められなかったケースは74%に及びました。申請された開発許可のうち、4件に3件は許可を得られなかったというわけです。その後、不許可となる率は減少しましたが、これは申請しても不許可となることが分かってきたので初めから申請をあきらめる開発者が多くなったからだと推察されます。
中央政府機関の分散
政府は民間企業にだけ分散を促進するのではなく、自らがお手本を示すべく、政府機関をロンドンから様々な地域に分散させていきました。1960年代には中央政府のオフィスが次々にロンドンから分散していったのです。しかも、移転先はロンドン近郊エリアではなくもっと遠い地方が選ばれました。移転先としては、それまで地域の経済を支えてきた伝統的な製造業の喪失による経済的衰退とそれに伴う高失業率によって衰退している地域に重点をおいたからです。1963年から1972年にかけてロンドンから分散していった中央政府スタッフのうち、ロンドンに近いイングランド南東部(サウスイースト)にとどまったのは28%です。20%がスコットランド、19%が北西イングランド(マンチェスターなど)に、11%が北部(ニューキャッスルなど)に移転していきました。
たとえば、内国歳入庁 Inland Revenue は2,200人をイングランド北西部のマンチェスターに、1000人をスコットランドのエジンバラに移転しました。同様に省資源省 Department for National Savings は3700人をスコットランドのグラスゴーに1800人をイングランド北部のダーラムに移しました。いずれもかつて依存していた製造業や炭鉱業などが衰退して地元の経済基盤が弱くなっていた地域です。
サッチャー保守政権の政策
1960~70年代にはインナー・シティー問題と呼ばれる都市部、特に経済衰退地域の社会問題が深刻になっていました。産業構造の転換による経済的衰退に伴う労働者の失業、貧困、教育や健康レベルの低下、環境破壊、アルコール中毒や薬物乱用、はてには犯罪から暴動に至る結果となっていたのです。
インナー・シティー問題が起きる地域には少数民族、失業者、低所得者など社会的弱者が多かったため、政府の政策ははじめ、社会福祉分野に重点が置かれていました。しかし問題の主な原因は経済的衰退であるとの認識も出てきました。1979年に成立したサッチャー保守党政権は自由経済政策に重点を置き、経済開発に特化した地域再生策を導入しました。
サッチャー政権は民間活力による経済活性化を目指し、それを補助する政策を導入しました。都市開発公社 (Urban Development Corporation/UDC)というエージェンシーを作り、エンタープライズゾーン(Enterprise Zone)という経済活性化のための特別地域を設けました。経済的な補助として、都市再開発補助金(Urban Development Grant/UDG) 及び都市再生補助金 (Urban Regeneration Grant/URG)を導入しました。これらはいずれも、それまで地方自治体が担っていた都市計画や地域の経済開発援助などをバイパスして、政府が民間企業に直接補助金を出したり、都市計画申請の簡略化を図るものでした。また、サッチャー政権はグレイター・ロンドン県(Greater London Council) と6つの大都市圏県(Metropolitan County Council)を廃止し、都市部において上層自治体がない一層性の仕組みを導入しました。これによって、都市部では広域の地域開発を行う機関がなくなり、代わりに中央政府が直接政策にかかわるようになりました。
サッチャー保守政権の地域経済活性化政策としては、貿易産業省 (Department of Trade and Industry) を中心としての国内投資の促進が挙げられます。特に外国企業の誘致に力を入れ、その受け入れ先として経済的に衰退している地域を候補に上げました。失業率が高い地域への単純雇用の増加が最大の課題であるために、誘致対象業種としては製造業に重点を置いていました。誘致のためには補助金、融資、免税そのほか様々な情報提供などのインセンティブを提供しています。
日本からも製造業、たとえば自動車製造企業などがイギリス各地に工場を作りましたが、イギリス政府は地域経済が衰退している地域を優先して企業誘致をしています。例えば、日産の自動車工場ができたサンダーランドはかつてあった炭鉱が閉鎖して高い失業率あえいでいた地域です。
まとめ
イギリスでは戦後からさまざまな試みを通して産業や経済、雇用の地方分散を試みてきました。その結果として、自由市場だけに任せておいたであろうシナリオに比べると、かなりの成果があったということができます。
けれどもグローバルな資本経済が進み、首都ロンドンがイギリスだけではなく国際的な金融市場の中心都市として繁栄するにつれ、ロンドンがあるイングランド南東部とそれ以外の地域の経済格差はまた広がりつつあります。
ロンドンには国際的な資本や投資が流れ込み、地価が上がってきています。その結果、住宅の購入・賃貸価格が高騰してロンドン市民の生活費を圧迫する半面、他の地域では地方経済が一向に盛り上がらないという状態のところが少なくありません。この流れをくいとめるためには新たな取り組みが必要になってきているといえます。
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