イギリスのあちこちどこに行っても見る「Public Footpath」の標識と、そこから広がる散歩道のネットワーク。これを見るたびにイギリス人の国民的趣味と言ってもいいウォーキングを楽しむためのアクセス権への静かな情熱を感じます。この「歩く権利」はどのように守られてきたのでしょうか。
歩く権利
『パーミアブルな町をひたすら歩く』でイギリスの小さな町に張り巡らされている路地ネットワークについて紹介しました。これらのフットパスは「Public Right of Way」と呼ばれる「公共の歩く権利」によって、守られています。誰が所有する土地であろうと、所有権とは別に、誰でもがそこを歩く権利を保証するものなのです。かつて自動車がない時代、人は毎日の生活や労働のために歩いて移動する必要があったため、このような道は生活の手段でした。今ではこのような道は主にレクリエーションとしての散歩を楽しむために大事なものとして守られています。
イギリス中、網目状に広がる「フットパス」は全長220,000kmに及びます。国が指定している長距離フットパス「ナショナル・トレイル」だけでも 15 本あり、全長約4,600km ありますが、それだけでなく、国中の無数の町や村の中や周り、湖水地方などの国立公園をはじめとする自然豊かな景勝地などに、大小さまざまなフットパスのネットワークが広がっているのです。
イギリスに行ったことがある人は誰でも、どこに行っても「Public Footpath(公共の歩道)」という標識が立っているのを見たことがあるのではないでしょうか。この標識があるところなら、牧羊地であっても、誰かのお屋敷の庭に見えても、誰でも、外国人旅行者でも、歩いて通る権利があります。
では、このような権利はどうしてできたのでしょうか?
イギリスのFootpathとEnclosure(囲い込み)
イギリスのFootpathの起源は古く、中世から存在しています。車がなかった中世の頃、人々はフットパスを通じて村や野へと移動し、農業を営んだり、交通や交易を行っていました。これらの歩道は、地元の人々が公共の土地や道を使用する権利を保障するもので、地域社会全体の利便のために維持管理されていました。けれども、この権利が制限されるようになったのが16世紀から19世紀にかけて行われた「エンクロージャー(囲い込み)」です。
英語で「囲い込む」という意味のEnclosure (エンクロージャー)というのは、文字通り土地を柵や垣根などで囲い込んで、外部者の侵入を阻むものです。まず16世紀頃、それまで一般農民(小作人)が耕作していた農地や共有地(コモンズ)を大地主が取り上げ、柵で囲い込んで羊を飼うための牧場に転換するという動きがおきました。さらに、17世紀から18世紀にかけても同様の囲い込みが行なわれたのです。
これによってそれまで自営していた農民の多くは土地を失い、大地主に雇われる農業労働者や、他の産業に従事する労働者にならざるを得なくなりました。一般農民たちが失ったのは耕地だけでなく、大地主によって囲われてしまった私有地へのアクセス権です。長年にわたって地元のコミュニティが使ってきた重要なルートである、皆に開かれたフットパスが失われたのです。
歩く権利を求める運動
これに対して19世紀の初めに労働者階級の人々がフットパスやコモンズ(Commons/共有地)の再利用を訴えました。彼らは、Footpathや公共の通行権を確保し、自然環境へのアクセスを促進するための法的な保護を求めて活動してきました。この運動は後に、自然保護主義者やアウトドア愛好家によって引き継がれていますが、その主な担い手となってきたのがOpen Spaces Society(オープン・スペース・ソサエティ)という非営利団体です。
Open Spaces Societyは1865年に設立されたイギリス最古の自然保護団体で、イギリスにおける公共の通行権や公共の土地へのアクセス保護と維持を目的としています。Open Spaces Societyの活動は、歴史的なFootpathや公共の通行権の保護に重要な役割を果たしているとして、国中で地域社会や自然愛好家からの支持を集めています。
Open Spaces society は、私有地であろうと地元民が長年使い続けてきたアクセスルートは公共(パブリック)のものとして開かれるべきだとして、その権利を法律で保護するための草案を1906年に作成しました。それが30年近くたった1932年に「The Rights of Way Act 1932 (歩く権利法)」として制定されました。この法律によって、イングランドとウェールズのどこであっても、一般民が20年間使い続けた道はRight of Way になるという法律上の保証ができたのです。
イギリスにはその他にも、ランブラーズという約10万人の会員を持つウォーキング団体がありますが、全国500の地域グループを持っていて、地元でウォーキングを企画しています。ちなみに「Ramble」というのは「ぶらぶら歩く」という意味。長距離のハードなウォーキングだけでなく、それほど歩くのに慣れていない人でも気軽に参加できるルートも用意されています。
地方自治体の役割
現在イギリスでは、FootpathやPublic Right of Wayの管理や維持に関する責任はおもにその地域の地方自治体が負っています。多くの自治体では地元のコミュニティと協力して、これらの歩道や通行権を維持し、一般の人々が安全に利用できるようにするための施策を実施しています。政府はこれらの施策を「歩く権利改善計画(’rights of way improvement plan‘ )」としてまとめ、地元コミュニティと連携しながら10年ごとに見直すことを自治体に義務付けています。
州内には 4488 の public rights of way があり、合計するとその長さは2,788kmに及びます。現状のRights of Wayをマッピングした地図もあり、1平方kmあたりにあるRights of Wayの長さを表しています。黒で囲んだのが私が現在住むSouthwellですが、この地区はⅠ平方kmあたりにRights of Wayが2,050~4,450メートルあるということ。やたらに多いとは思っていましたが、なるほどと思ったり、でもそういうところはここだけではないということもわかります。
地方自治体は、Footpathや公共の通行権の重要性を認識し、それらを保護するための法的措置や予算を割り当てることが期待されています。たとえば、清掃や植栽管理、道の表面や塀、柵、ゲートなどの管理、ごみ箱や標識、街灯の設置や維持など。そういうマネジメント施策についてもこのプランでは説明があります。
新しい開発や土地利用・所有権の変化によって既にあるFootpathやPublic Right of Wayが危機にさらされる場合があります。このような課題に対処するために、地方自治体は地域社会や土地所有者、関係者と協力して、Footpathや公共の通行権を保護し、利用者に安全かつ公平なアクセスを提供するための施策を継続的に推進していく必要もあります。
たとえば、それまで囲いのない野原だったために一般人が近道として利用していた道が、新しい住宅地の開発によって塀で覆われ通れなくなるといったことが起きる場合があります。そのような時、地元コミュニティの要請があれば、地方自治体は都市計画の仕組みや法的手段を活用して対処することができます。
都市計画と開発制限
地方自治体は、都市計画制度において新しい開発の都市計画許可申請があった場合、その判断のためにさまざまな要素を考慮しますが、その中に公共の利益やアクセス権も含まれます。開発計画がFootpathや公共の通行権を侵害する可能性がある場合、地方自治体は開発に制限を加えたり、デザインの変更を求めたり、開発条件を課したりすることができます。たとえば、既存のFootpathを維持するための保護措置を講じる、公共の通行権を確保するためのスペースを確保する、既存のルートを残すことが難しい場合は、適切な場所に新たなFootpathを設けるなどの条件を付けることが含まれます。
さらに、それまで一般に開かれていなかった私有地に都市計画開発許可を与える場合に、セクション106という開発義務を通して、開発業者に地元コミュニティのための新しいフットパスを作ることを課し、そのメインテナンス義務を負わせることもあります。前に住んでいた町で病院の敷地跡に新しい住宅地ができた時に、敷地内にあった川沿いに新しい散歩道ができたのもこの制度を利用したものでした。新しい住宅開発をすることで開発業者だけがもうかるのではなく、公共のベネフィットになる施設や仕組みが提供されるのは、よくできた仕組みだと思います。このような歩道を新設・維持する予算は政府からは出ないので、緊縮財政に苦しむ自治体にとっては重要な手法となっています。
法的手段の活用
地方自治体は、必要に応じて法的手段を活用してFootpathや公共の通行権を守ったり、違反行為を取り締まることもできます。これには、特定の地域や通行権に関する法的規制の導入や強化、違反行為に対する罰則の規定などが含まれます。
Footpathや公共の通行権が侵害された場合、地方自治体や地域の利害関係者は、法的手段を用いて権利の主張を行い、侵害者に警告を行います。警告をしても侵害者が違法行為を覆さない場合、自治体は侵害行為の差し止めや修復を求める訴訟手続きを行うことができます。法的な手段を活用することで、Footpathや公共の通行権を守るための先例を確立することができ、同様の侵害行為を未然に防ぐ効果も期待されます。
住民参加の仕組み
Rights of wayに限ったことではありませんが、地域民主主義が浸透しているイギリスでは、そこに住んでいる人々が何でも「お上」任せにしてあてがわれたものをありがたがって頂戴するということはありません。
まちづくりにしても、自然や環境保護にしても同様ですが、「歩く権利」についても住民は積極的に取り組んでいます。都市計画マスタープランを作る時も歩く権利改善計画を作る時も、住民から広く意見を取り入れる仕組みが整備されているほか、日常的にも問題や改善のための提案などを自治体に届けることも推奨されています。
1人1人の住民ももちろんですが、地元のウォーキンググループや様々なチャリティー団体なども歩く権利の保護や拡大について積極的に意見を発信し、活動をしています。そのような意見をまとめるのが自治体の役目で、決してトップダウンで勝手に決めるというスタンスではないのです。
イギリス人にとって重要な「歩く権利」と「公共」
連休明けにイギリス人に「週末は何をした?」と聞くと、「ウォーキングに行った」という言葉が返ってくることが多いです。家の近くを家族と散歩したとか、歩いてパブを数軒はしごした(パブ・クロール)とか、車で湖水地方まで遠出して、一泊旅行でヒル・ウォーキングを楽しんだとか。特に高い山に登るとかいうのではなく、何もない野原や川沿いにあるフットパスを歩くという人がほとんど。
イギリス人はとにかく歩くのが好き、そして自然に触れるのが好き。そんなイギリス人の国家的レジャーとも言えるウォーキングに欠かせないのが「歩く権利」。そして、それを可能にするのが国中どこに住んでいても誰もが享受できる「Public Footpath」のネットワーク。散歩道に限ったことではありませんが、ここでいう「パブリック/公共」は、イギリス人にとって日々の生活に根付いた重要な概念です。「公」というと政府とか自治体とか「官」とか「お上」を連想するかもしれませんが、そうではありません。「公」というのは「みんなのもの」ということ。自分も含まれますが、すべての人が含まれます。年齢、身分、属性など関係なく。イギリスでは外国人である私も。
「歩く権利」と「公共」という、イギリス人にとって二つの重要な要素が象徴するものが「Public Footpath」。その恩恵にあずかる幸運に感謝しながら、今日も私は散歩に出かけます。