福岡県うきは市の筑後吉井重要伝統的建造物群保存地区を訪れました。明治大正時代の白壁土蔵造りの町並みを見ることができる地区で、かつての繁栄を物語る歴史的な建物の数々がずらりと並ぶ街道が今も残っている印象的な街です。
筑後吉井(福岡県うきは市)
筑後吉井は江戸時代に有馬藩の城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道にあり、宿場町として賑わいました。江戸中期以降には蝋(ろう)、酒造業、菜種の製油など農産物加工品の製造も盛んになり、「吉井銀(よしいがね)」と呼ばれる有力商人による金融活動も繁栄しました。この繁栄は明治、大正まで続き、経済の最盛期だった大正期に現在の町並みが形成されています。
明治初期までに3回の大火に見舞われたため、現在まで残る伝統的な建物はほとんどが明治期以降のもの。さらなる火災被害や延焼を防ぐために、それまでの草葺き屋根の代わりに瓦を葺き、外壁をはじめ軒裏までも漆喰で塗り固めた土蔵造りにし、窓や店舗の開口部に鉄製の扉を施すなど、防火対策万全の白壁土蔵の町並みとなりました。富を得た商人たちは火事に耐えられるだけでなく、富を誇示するような豪勢な装飾を施した商家を競って建てたと言われています。
旧豊後街道沿いの商家群
現在でも、豊後街道の街路沿いに漆喰塗の重厚な土蔵造りの商家跡が連続する町並みと、川沿いに広がる屋敷群が約250軒ほど、ほぼ当時の姿のまま残り、屋敷や社寺の緑や街を流れる川や水路などが一体となって歴史的景観を形づくっています。このため、この地区は1996年に「重要伝統的建造物群保存地区」(*下記参照)に選定されました。
古い街並みは旧街道沿いや城下町、港のそばなど、現在の主要道路から外れた場所にあることが多いのですが、この街を通る旧豊後街道はそのまま国道となっていて、道路幅も広く交通量もかなりあります。この道路には筑後軌道という鉄道が敷かれ、明治末期から昭和の初めまで蒸気機関車が走っていたというので、道路幅が広いのもうなづけます。
この主要道路の両側に並ぶ商家は多くが入母屋造り(屋根の上部が切妻で下部が寄棟)となっているほか、豪華な装飾が施された建物が多く、かつての街の経済力が想像できます。このうちの一軒、海産商を営んでいた松源商店は現在、町並み交流館として公開されています。
白壁通り
この旧街道から横に入った「白壁通り」と呼ばれる細道にも伝統的な建物が残っています。
車がたくさん通る国道と違って、ゆっくり歩いたり車にひかれる心配なしに写真を撮ったりすることができる道。このような道を歩くと、かつて農業用水を確保するために筑後川から街に通したという水路や堀川が見えてきます。
その川沿いに建つ「居蔵(いぐら)の館」と呼ばれる、明治末期に建てられたお屋敷が一般公開されています。「居蔵」というのは製蝋業(せいろうぎょう)で財をなした豪商の店舗兼住居だったことからついた名前です。
外観を見ると、壁、瓦屋根・軒の裏まで漆喰で塗り込められ、2階の窓は鉄製の扉がつき、2階の屋根の下には「うだつ」と呼ばれる壁もあって火事対策も万全な頑丈な建物です。
居蔵(いぐら)の館
この建物の内部を案内してもらい、贅沢な作りの詳細を堪能することができました。
まず、目につくのは黒光りがする立派な梁と柱。ヒノキでできている大黒柱2本は8メートルあり、1階から2階まで通しで使ってあります。この柱の間にある部屋は吹き抜けになっていて、大きな神棚が高い位置に鎮座しています。この贅沢な空間は神様の上を誰も通らないようにするためなのだそうです。
住居としてだけでなく、仕事場としても使われていた建物なので、正面玄関のほかに、使用人用の勝手口があり、そこには使用人用の風呂がまだ当時のまま現存しています。その隣の土間は台所となっていて、かまどや流しも今でも使えるとのこと。
お屋敷の主人用の贅沢な作りの浴室やトイレは別にあり、蒸気を逃す仕掛けになっているドーム型の天井も健在で、当時の職人技を見ることができます。ほかにも、家紋付きの桐ダンスやタンス階段など、贅を極めた屋敷であることがわかる仕様があちこちに見て取れます。
古い建物の敬遠から見直しへ
吉井はこのように立派な歴史的建造物が多く残る街なのですが、昭和40年代にはこのような建物は「古くさい」とされ、建物の表側を看板や壁で覆うところが増えました。そのうち商店街は軒並みアーケードで覆われ、伝統的な建物は全て隠されてしまうという状態が数十年続いていました。昭和の終わりから平成にかけてようやく伝統的な町並み保存の動きが始まり、平成4年(1992年)の「全国町並みゼミ」誘致をきっかけに、住民の意識も少しずつ変わってきたそうです。この頃から、商店街のアーケードや看板など外観をおおう付属物がはずされ、もとの姿が見えるように修復されました。
さらに、歴史的価値がある地区で電線の埋設工事が行われ、空を覆う電線や通りに立つ電柱のない、すっきりした街並みがよみがえっています。お話を聞いた市のスタッフによると、電柱電線を埋設する計画が持ち上がった時は、「そんなことをする必要があるのか」と思う人も多かったそうですが、いざ工事が始まって空を覆う電線がなくなったら、すっきりした景観にみんなが感動したとのこと。今では、もとの方がよかったという人はいないそうです。
最初は一部の熱心な人によって薦められた街並み保存の取り組みが、今では地元の一般住民にも理解されはじめ、ずっと住んでいる住民にとっては当たり前だった、または「古くさい」と思っていた街に誇りを持ち、街並みの修復や古い建造物の維持に気を使うようになってきています。街並み修復の取り組みと同時に、カフェや雑貨屋など観光要素のある店舗もあちこちで見かけます。とはいえ、たとえば湯布院や日田などに比べると、観光客や訪問者はそれほど多くない印象で、観光地らしくない所がかえって落ち着きのある街並みを引き立てているように思えました。
*伝建(でんけん)と重伝建(じゅうでんけん)
「伝統的建造物群保存地区」は、歴史的な建造物を単体ではなく、周囲の環境とともに群れとして保護しようとするもので、1975年(昭和50年)にできた制度。
自治体主導で決められる「伝統的建造物群保存地区」の中でも特に価値が高いものを国が「重要伝統的建造物群保存地区」として選定しています。2021年時点で重伝建は日本全国104市町村に126地区あります。
この二つ、名前が長くて覚えにくいので、前者を「伝建(でんけん)」後者を「重伝建(じゅうでんけん)」と略して呼ぶこともあります。
参考:「伝統的建造物群保存地区」