新型コロナウイルスは世界中に流行する「パンデミック」に指定されましたが、過去にも人類はさまざまなパンデミックに襲われた歴史があります。そしてその影響は私たちの生活の様々な面に現れ、都市計画もその例外ではありません。過去のパンデミックの影響を知り、「アフター・コロナ」時代の生活スタイルや街づくりについて考えます。
過去のパンデミックが都市計画に及ぼした影響
6世紀から18世紀にかけて繰り返しヨーロッパをおそったペスト(黒死病)は長い間、繰り返し人類を苦しめてきました。有名なカミュの小説『ペスト』もこの時代について書かれたものですが、ほかにも様々な歴史書や芸術作品により、私たちはその恐怖の片りんを知ることができます。
ローマ時代
541年から767年にかけてユスティニアヌス時代の東ローマ帝国を中心に流行したペストは当時の人口の半分近くが死亡し、ローマ帝国の崩壊を早めました。
古代ローマでは、ペストのような感染症の拡大を防ぐために、適切な汚物の排出が都市の公衆衛生の常識として理解されるようになりました。イタリアやギリシャなどに残る古代ローマ遺跡を訪ねると、今でも初期の下水道設備を見ることができます。
ところで、ローマ時代にあれだけ愛されていた入浴文化が中世になると途絶えてしまう理由の一つにも感染病があったと言われています。共同浴場が感染源とされ、入浴するとペストや梅毒がうつると考えられたのです。
14世紀のペスト
その後、何度も流行したペストによる最大の被害は14世紀に起こり、当時ヨーロッパ全人口の1/3が死んだといいます。ペストの流行が収まった後にはまたの再発がないように、対応策として医療や衛生状態の改善はもちろんですが、建築や都市計画にも影響が及びました。
14世紀に起こったペストはフィレンツェでも流行し、その人口の5分の3が死んだと言われています。有名な詩人ボッカチオが『デカメロン』で描写した街の様子は1348年に描かれた絵画で無数の屍が横たわる惨状を見ることができます。
このペストの収束と共に中世社会が終わり、ルネッサンスの芸術文化が開花したと同時に、都市改良も行われました。
レオナルドダヴィンチはミラノの人口の1/3を死亡させた1484~1485年に襲ったペストをまぬがれ、感染病対策を盛り込んだ都市計画をデザインしています。
中世の狭い通り、非衛生的で混雑した、感染症に弱い都市のデザインを改良して、余裕のある空間を取り、クリーンで機能性の高い都市構造を描いたスケッチが残っています。
ダヴィンチは、川や運河を利用し3階層で用途を分けた都市利用システムを提案しました。階ごとに馬車などの運送用、歩行者用、運河と建物の地下部分をつなぐといった今でいう「ゾーニング」の縦型アイディアを模索しています。
この案は実用化はされませんでしたが、都市の土地利用を用途によって分け、衛生的、能率的な都市計画を目指したダヴィンチの考察を知ることができます。
ルネッサンス時にはこの他にも、市民のより健康的な生活のために様々な提案がなされ、そのいくつかが実行されました。
多くの都市では国や地域、街の境に城壁やシティーウォールを建てて検疫施設を作り、必要な時に出入りする人を監視したり制限したり隔離できるようにしました。
そして、街のあちこちに大きく余裕のある野外パブリックスペースが作られ、人々の憩い、集会、商業取引の場が提供されました。
また、中世の狭く窮屈な住環境を一掃して、空間や換気を重視した住宅がデザインされ、水道や下水道の施設が導入されたところもあります。
さらに、このような部門で専門的な知識を身に付け、実際に仕事として独立していけるような建築家や測量士などといった専門家が生まれました。
18世紀から19世紀
疫病として猛威をふるったのはペストだけではありません。18世紀の黄熱病(Yellow fever)、19世紀のコレラ、チフス、天然痘(Small pox)なども当時の「文明国」をたびたび恐怖に陥れました。
19世紀に流行したコレラではフランスのペリエ首相やドイツの哲学者ヘーゲルまでが死に至り、1812年のナポレオンのロシア遠征の際にはフランス軍でチフスが大流行しました。
当時コレラは空気感染によって広がると信じられていたのですが、1854年にロンドンでコレラが流行した時、医師のジョン・スノウはコレラが井戸や水路によって広がることを解明しました。スノウは行政当局に命じて感染源となった井戸や水路を閉鎖させることで流行を阻止したのです。これによって公衆衛生学が発達していきました。
この公衆衛生学の新しい理論に基づいて、イギリスをはじめとする欧米諸国では上下水道整備などの公衆衛生システムや道路拡幅、スラムクリアランスなどを取り込んだ近代的な都市計画が始まりました。
たとえば、1850~60年代パリ改造計画を行ったオスマンは主要な道路をブルバードとして拡幅し、街路樹を植え、広場や公園を作り、スラムを一掃し、水道網を地下に張り巡らせました。
オスマンはさらに学校や病院などの公共施設などの拡充を図り、学校での衛生教育をも通して公衆衛生面での改善がみられ、当時流行していたコレラの発生をかなりの程度抑えることに成功しました。
20世紀から戦後
時代がすぎて、20世紀になっても人類はたびたび結核、チフス、ポリオ、スペイン風邪などの感染病の流行に見舞われました。
産業革命後にスラム街ができたロンドンでは過密状態の住環境のもと、結核が瞬く間に広がり5人に一人が命を落としたと言われています。スラムの劣悪な環境とそれに伴う貧民層の健康劣化は当時大きな社会問題となっていました。
第二次世界大戦中の1942年にイギリスではベヴァリッジ・レポート(Beveridge Report)という戦後の福祉政策の基となる報告書が出たのですが、それが実現されたのは第二次世界大戦後の1945年です。
この報告書は社会保障や国民医療など「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれたイギリスの福祉制度の基となるものですが、すべての国民に高水準の住環境を与えるための都市計画政策をも盛り込んでいました。
この都市計画制度は戦後に法律として整備され、今でもイギリスの都市計画制度の基本となっています。イギリスではその後、スラム・クリアランス、都市再開発、郊外開発、公園や広場などの整備、交通政策、ゴミ処理制度などさまざまな取り組みを通して、全国民に衛生的で健康的な環境が提供されることを目指すことになります。
このような動きは戦後の欧米諸国に共通して見られ、それぞれの国で様々な法律や政府・自治体の政策が整備されました。
さらに都市計画・建築スタイルとしても、それまでの窮屈な住環境と一線を画す「モダニズム」があらわれ、人々の注意をひいて主流となりました。
余裕を持った空間構成と大規模なデザイン、住居地と産業地区を分けるなどのゾーニング、ガラスや鉄、コンクリートを使ったシンプルなデザインと言ったモダニズムは、それまでの暗く狭い建築物に慣れていた人たちには新鮮にうつっただけでなく「健康的」なデザインとしての評価も受けました。
都市から郊外へ
20世紀には感染症の流行によって都市から郊外への人の動きもありました。ロンドンやパリでは郊外の開発が進み、お金に余裕のある富裕層がより「健康的」なライフスタイルを送るため都心を離れ郊外や海辺、山間の田舎へ移住する風潮も見られました。
イギリスでは19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、エベネザー・ハワードが提唱した田園都市がつくられたり、社会事業家や工場主が労働者のために良好な住環境を提供する(ポートサンライトやボーンヴィルなど)という取り組みも行われました。
これはチョコレート工場を持つキャドベリー社が労働者のために建てた住宅街です。バーミンガム市内にあった拠点を郊外の農村部に移し、緑豊かな環境に工場とそこで働く人々とその家族のために質の高い住宅を建てたのです。
これらの背景となったのはロンドンやマンチェスター、バーミンガムなどの大都市にできていたスラム街で感染症などが流行し、健康的な市民生活が困難になったことがあげられます。
1918~1920年にスペイン風邪が大流行した米国でも、都会からの人口流出がありました。ニューヨークのマンハッタンでは1920年にあった人口250万人が1970年には150万人に減りました。もちろんスペイン風邪によって命を落とした人も多かったのですが、生き残った人たちも環境の悪い都心部から郊外や田舎へ逃げ出したのです。
けれども、そういう都会離れも長期的に見るとそう長くは続かず、特に労働者層や若い人たちは、景気が回復してくると仕事や高い給与を求めて徐々に都市に戻ってもきました。
新型コロナウイルスによる都市計画への影響
1920年に大流行したスペイン風邪以来、私たちの多くは100年の間、世界中に蔓延するような大きなパンデミックに悩まされることなく、医療の進歩と共に過去にないほどの健康と長命を享受してきました。
けれども、2020年に医療や衛生状態が行き届いているはずの先進国を中心に世界中を襲っている新型コロナウイルスは未だとどまるところを知りません。
このパンデミックは私たちの住むところにどんな影響を及ぼすのでしょうか。過去のパンデミックのように人々のライフスタイルや政府や自治体がとる都市計画政策に影響を与えるのでしょうか。それについては次の記事に譲ります。
https://globalpea.com/corona-town