ロンドン塔の隣に中国が大使館を移転する計画があるのですが、この地域の自治体がその都市計画申請を不許可としてしまいました。中国側は不満をあらわにし、英中2国間の国際政治問題にまで発展しそうです。イギリスの都市計画制度は少し複雑なので、その仕組みとともにその経緯とこれからどうなるのかを解説します。
ロンドンの中国大使館移転計画
ロンドン塔(Tower of London)の隣にあるThe Royal Mint/ロイヤルミント(英王立造幣局)は700年の歴史を持つ建物で、歴史的建造物グレード II*としてリストされています。中国は、ロンドン中心部にある現在の大使館から約6.5キロ離れたこのロイヤルミント跡地2.3haを約2億5500万ポンド(約463億円)で購入し、ここに大使館を移転する計画を2018年に明らかにしました。中国大使館としては欧州最大で、アメリカの首都ワシントンにある中国大使館の約2倍の面積になるということ。
敷地内には大使館としての施設のほか、オフィス、スタッフ用住居、中国文化センターも入り、建物の前には一般市民に開放される公共の広場も作られるという大規模な計画です。
大使館開発のための都市計画許可申請
この都市計画申請はロンドンに約30ある自治体のひとつ、タワーハムレット区の都市計画課に提出されましたが、2022年12月の都市計画委員会で不許可となりました。この決断は中国にとって寝耳に水の許しがたいことだったようです。
ロイター紙によると中国高官は大使館移転計画が頓挫してしまったことについての不満をあらわにし「これは政治的問題だ」と言っています。英国政府が大使館計画を阻止するため、地元の反対を画策したのではないかとの疑念まで口にしたとのこと。この大使館計画への反対意見に、中国政府によるウィグル、チベット、香港などの人権問題を理由にするものも多かったことで、中国側はかなり神経質になっているようです。
とはいえ、本当のところは、イギリス政府もタワーハムレット区の決断を困ったものだと思っているのではないかと私は推察します。中国政府との関係をこのような問題で拗らせたくはないでしょうから。しかしながらイギリスでは都市計画の判断は原則として自治体に任せるのが筋なので、英政府としてはこの段階ではどうしようもなかったはずです。
このおかげで、北京にある英国大使館改築計画も「報復措置」として頓挫してしまうのではないかと英国関係者は危惧しているそうです。北京の英国大使館は手狭でクリケットコートをつぶしてオフィスに使わざるを得ないのだとか。中国側はロンドンの中国大使館移転ができないのなら、イギリスの大使館改築計画も許可しないと言い出すのではないかと関係者は心配しているのです。
それにしても、どうしてロンドンの中国大使館計画が不許可となったのか、そしてそれが中国側の言うようにイギリス政府の思惑ではないだろうということは、イギリスの都市計画制度の仕組みについて説明しないとわかりにくいかもしれません。
イギリスの都市計画制度の仕組み
イギリスの都市計画制度はそのほとんどが各地域(日本で言うと市や区)の自治体にまかされ、地域の都市計画課が法律に基づいて独自の判断をします。
新築だけでなく改築や用途変更など、すべての開発について地方自治体の都市計画課に都市計画許可申請をする必要があり、都市計画課の専門職員(都市計画家)が個々の計画を審査して許可、条件付きで許可、不許可の判断をしてレポートを作成します。その審査をするプロセス中には近隣住民や一般の人などに広く意見を募り、判断材料とします。さらに、最終的な決断は地方選挙で選ばれた複数の市会議員が構成する都市計画委員会で決められます。専門家の考察をもとにしながらも、最後は民主主義にのっとって市民の代表である議員が決断するというわけです。この委員会は公開され、一般市民も傍聴が可能です。
ほとんどの場合、都市計画専門職員の判断通りに許可不許可が決められます。が、地元で大きな問題となっている計画などについて、まれに委員会がそれとは異なる決断をすることもあります。その場合は複数の議員(この数は自治体によって異なるが、5~10人くらい)が投票して多数決で決まることになるのです。
中国大使館の都市計画申請
ロイヤルミント跡地の中国大使館の計画について、区の都市計画専門家は条件付き許可の判断をしました。都市計画許可の判断は自由裁量によって決められるのではなく、都市計画法で定められたMaterial Considerationが判断材料となります。これには地域のマスタープランとの適合性、法律、環境、景観デザイン、周囲の交通、地元コミュニティへの影響など、公共における観点が主。逆に、土地所有者や開発業者、近隣住民など個々の利益や個人の好みは判断材料となりません。
ロイヤルミント開発の場合、都市計画許可申請者である中国がどんな国家であるかとか、人権問題などについては、都市計画判断の材料ではないのです。なので、都市計画専門家としては、都市計画の法律において判断材料とされる要素を総合的に審査したうえで、許可の判断をしたわけです。この判断はその理由とともに公開されていて、誰でも読むことができます。
このレポートには許可における条件とともに、都市計画開発義務(Planning Obligation)として、申請者に建設時における雇用訓練提供、完成後の雇用訓練提供、カーボンオフセットなど、さまざまな義務を課していて、その金額も明記してあります。このような義務は中規模以上の計画申請にはつきもので、自治体は都市計画申請を許可する代わりに、地元コミュニティへのベネフィットを最大化するべく申請者と「取り引き」するのです。これが通常の申請者だったら、この計画は許可せざるを得ない内容だったのでしょう。
しかし、都市計画委員会で区会議員たちは都市計画専門家の「条件付き許可」の推奨を覆して不許可の決をとりました。その理由としては、安全保障上の理由や住民への影響があげられています。
この地域にはイスラム教徒の住民もかなりいて、中国大使館の計画段階で、住民の一部が、中国のウイグル人迫害について問題視する声をあげていました。さらに、チベットや香港問題も影響しており、これらの活動家が都市計画申請に反対する書面を送っています。
さらに、大使館敷地に隣接するアパートメントに住んでいる約300人の住民も大使館移転に懸念を表明しています。このアパートは土地を購入した中国政府が新たな大家となったのですが、住民は中国関係者がアパート内に立ち入ったり、旗などを掲げるのを禁止するのではないかと心配しているのです。また、中国大使館があることで、テロの標的になったり、中国政府に反対する運動家によるデモなどが多発する地域になり、住民の生活に影響するのではないかと危惧しています。現在ロンドン中心地ウエストミンスターにある中国大使館の前では、ウィグルや香港問題などに関連するデモが頻繁に行われているので、その心配もまあ理解できます。
住民の投票で選ばれた地方議員たちにとって、地元有権者の意見は重要です。都市計画観点からは非の打ち所がない申請内容であっても、住民たちの声を代表して不許可とせざるを得なかったということなのでしょう。
これからどうなるか
都市計画申請が不許可となった場合、申請者はその決断に対してアピール(不服申し立て)することができます。中国がアピールをすると、全国のアピール案件を扱うPlanning Inspectorate というエージェンシーの都市計画検査官によって決定がなされ、それでも不許可となった場合、申請者はHigh Court(高等法院)に訴えることができます。
個々の地方自治体に任せるのが適当ではない、国家的に重要な判断を要する開発(まれだが、たとえば原子力発電所の建設や主要鉄道・幹線道路ルートの決定など)の場合は、政府が「コールイン」して決定権限を担当大臣(住宅・地域社会相)にまかせる決断をすることもあります。
なので、この中国大使館計画の場合、イギリス政府が中国政府との関係を重要視するなら、政府が地方自治体の決断に反してこの計画を許可する決断をすることも可能なのです。この場合、地方自治体の都市計画課の都市計画観点からの判断は許可ということだったので、最終的には英政府がコールインして許可するという流れになるのではないかと推測します。
自治体は罰金を支払う羽目に?
都市計画申請の決断は本来なら都市計画の法律や制度に基づいて決められるべきものですが、一部の地元住民や活動団体の声が大きい場合、この件のように地元議員の政治的な判断が反映されることも起こります。政府はそのようなことが起こるのを防ぐために、地方自治体が適当でない理由で都市計画申請を不許可とし、のちにアピールで申請が許可された場合に、そのアピール費用を自治体に支払うように命じることがあります。この件も、もしかしたらタワーハムレットが「罰金」を支払う羽目になってしまうのかもしれません。
もうすぐ、アピール期限の8月11日が近づきますが、これから、どういう展開になるのでしょうか?中国は、かげでイギリス政府に政治的なプレッシャーをかけているのかもしれません。
いつか、たぶん10年くらい経ったら、ロンドンの一等地に大きな中国大使館が建つ日がくるのかもしれず、その前の公共の広場でくつろげることができるようになるかも。そして、北京のイギリス大使館の改築もできて、大使館スタッフは、またクリケットが楽しめるようになるのかもしれません。