‘The Road to Somewhere’「どこかへの道」という日本語未訳の本があります。2016年にイギリスのジャーナリスト・作家であるデイヴィッド・グッドハート(David Goodhart)が出版したものです。イギリスEU離脱国民投票で多くの予想に反してBrexit派が勝利した後に出た本で、Brexit派勝利の理由は何かと探っていた人たちの間で話題にもなりました。
EU離脱国民投票結果の理由
当時、EU離脱の主な原因は移民政策への反対だとみられることが多かったようですが、私はそんな単純な理由ではないと思っていました。国民の半分、特に地方の労働者階級が現政権やイギリス社会の在り方に不満を持っており、その抗議票という意味合いがあったと思ったのです。
移民政策もそのうちの一つですが、その背後にあるのは地方の中低所得者層がグローバル資本主義で潤ってきたイギリス経済の恩恵を受けてこなかったこと、その反面、富める者は富むばかりで格差が広がっていることへの不満が募ったということでしょう。これは、米国のトランプ支持、フランスの黄色いベスト運動ほか、各国で広がってきたポピュリズムにもつながる傾向です。
この本が書かれたのはBrexit国民投票の前ということですが、国民投票の結果を暗示するようなイギリス社会の分断について指摘しています。その分断に気が付かず「イギリス経済発展のためにはEU残留しかない」と能天気に国民投票をおし進めたキャメロン保守党政権をはじめ、右左の多くのリベラルエリートはこれを読んで初めてこの分断に気が付いた人も多かったのです。エリートというものは似たような人に囲まれているので、異なる社会に住む人たちとの接点がないからです。
イギリス社会の分断
もともと政治信条としてはリベラルだったグッドハートが、グローバルなリベラル社会の在り方について疑問を持ち始めたのは、10年くらい前だったといいます。当時イギリスのトップエリート官僚とBBC幹部とおしゃべりをしていた時に、二人が「イギリスに福利をもたらすことよりも世界全体に福利をもたらすことを目指している」と言ったことに、彼は驚いたのです。
日本人は帰属意識が強くノーベル賞とかオリンピックとかの話になると、受賞したのが日本人かどうかということだけが話題になる国ですが、イギリスはそうではありません。一般的にいってもっと国際的で、自国の利害だけでなく世界全体とか地球環境のことに目を向ける傾向があります。特にエリートともなればなおさらです。
けれどもグッドハートは国を率いるイギリス社会のエリートたちは、あまりにグローバル志向に偏りすぎて、イギリス社会の一般庶民のことを軽視しているのではないかと疑い始めたのです。どうしてそうなったのかを考えた時、彼は「anywhere」な人と「somewhere」な人との違いに気が付きます。
これは、どこに住んでも適応するグローバルなエリートと、ある場所にずっととどまる庶民の価値の分断をあらわす考え方です。これまでの、右や左といった政治的な区別を超えた新しい分断であり、両グループは左右両派に存在するといいます。
この二つを大まかに分けるとこういう図式になります。
どこでも族(Anywheres)
コスモポリタンエリート。大学進学と共に生まれ故郷を離れ、ロンドンなど都市で暮らす。中道左派は教育やメディア、中道右派は金融業、ビジネスマン、法律、会計といった職業につく。高学歴リベラル、経済発展・社会的自由を目指し、所得や社会的地位が高い。個人主義で人種やジェンダー平等、自由を重視。地域の伝統や国家を重んじる精神が薄い。多様性を尊重、移民を歓迎し、自らも流動性が高く、都市居住者が多い。イギリス社会の20から25%を占め、エリートが多く、政治経済の場で声が代表されがち。
ここだけ族(Somewheres)
低学歴のブルーカラー労働者や家族経営の店主など。地方や庶民的な地域など生まれ育ったところにずっと住む人たち。家族やコミュニティを大切にする、保守的でその日暮らしの傾向。地域や国への帰属意識が強いが、政治にはあまり関心がない。人種差別者ではないが、自分たちが生まれ育った街が急に移民によって変わるのには不安を抱く。自由化やグローバリズムによる恩恵は受けず、エリートたちによって置き去りにされ、不安定な状況に置かれたと感じている。イギリス社会の50%を占めるが、エリートではないため、政治の場などで声が取り上げられないことが多い。
イギリスの北と南の分断と格差
イギリスには一昔前からNorthernerとSouthernerという、北部の工場労働者とロンドンなどの知的労働従事者を分ける図式があります。経済産業のグローバル化とともにSouthernerたちは今や南だけではなく世界を股にかけて活躍していますが、北の人たちはずっとそこにいるままの「ここだけ族」です。そして、その格差や分断はもっと広がってきているのです。
Brexit国民投票で反旗をひるがえしたのは、グローバルな経済的社会的リベラリズムに率いられた政治家たちに長い間無視されていた物言わぬ大衆である「ここだけ族」の反撃ともいえます。彼らにとっては「イギリス経済発展のためにEUに残留すべき」という論理は通らないのです。その経済的恩恵をうけてこなかったから。それどころか、安い労働力を求めて工場が中国に移されたために仕事を失ったという人々もいるし、東欧からの移民が安い賃金で働くために収入が減ったという人もいます。
リベラルはグローバル化によってさまざまな恩恵を受けてきましたが、それによって経済的に豊かにならないばかりか、苦しくなった人たちがいることにはあまり気が付きません。彼らは福祉や貧困などの社会問題に関心はあっても、その前提条件である連帯意識や共通のアイデンティティを軽視する傾向にあります。たとえば地方の失業者を見ると、彼らはなぜ仕事のある都会などに引っ越さないのかと思うのです。「ここだけ族」にとっては地元のコミュニティが仕事より重要だということを理解できないのです。
生まれ育った小さな町に存在する習慣や生活様式、住民が一体となって助け合う文化や相互信頼感。チェーン店やビッグブランドでない地元の個人商店の顔見知りの店員やいつものパブやカフェで出会う仲間たちとの馴染み深さ。親兄弟や親せき、昔の幼馴染など、困ったときに助けてくれる人がいる近くにいる安心感といったソーシャル・キャピタルとも呼べるものは「ここだけ族」にとっては貴重です。
「どこでも族」の誤解と反省
「どこでも族」は生まれ故郷を出て都会に暮らし、その後も仕事のためにあちこち、時には外国で暮らしてキャリア構築を重ねて豊かになっていきますが、自分が享受する自由で安定した秩序が実は人々の相互信頼感を土台にしていることに無頓着だったりします。国境を開放して移民を受け入れることがリベラルだと思い、「ここだけ族」が抱く、馴染み深い地元が急速に変わっていくことへの不安を理解できません。Brexiter(EU離脱論者)は排外主義者とか人種差別者だとレッテルを張ることさえあります。
グッドハート自身はエリート家庭に育ち、リベラルでEU残留派でもあったのですが、イングランド北部でジャーナリストとして働き「ここだけ族」との交流を深めていく中で考えが変わっていったといいます。彼らは単に移民に反対する排外主義者ではなく、自分たちの馴染み深いコミュニティが急に変わっていくのについていけないだけであり、自分たちの街や文化習慣を守りたいだけなのだということに気づいたのです。
そしてグッドハートは地球市民的・根無し草なリベラリズム思考は時として、自国の小さなコミュニティに根を張ってつつましい日常を守りたいと願う人たちにとってはポリティカル・コレクトネスにしか映らないのだと警鐘を鳴らします。
イギリス社会分断の解決法
分断化してしまったイギリス社会はこれからどうしたらいいのでしょうか。
彼は今イギリス社会に必要なのは「どこでも族」であるリベラルエリートが「ここだけ族」が抱く不満や不安、問題に耳を傾け、話し合うことだといいます。
これまで「どこでも族」は自分たちの価値観が正しいと思い、それを「ここだけ族」に押し付けがちでした。彼らが大事だと思う価値観とはよく「ウォーク(woke)」と呼ばれる「意識高い」系の問題で、例えば国際平和、フェミニズム、LGBT、BLM、気候変動、人権、難民とかいったものです。
それはみな確かに大事なことですが「ここだけ族」にとっては目の前にある自分の生活のほうが差し迫った問題なのです。家族を食べさせるための仕事があるかどうか、雨露をしのげる住宅に暮らせるかどうかといったといった心配をする人たちにとって、気候変動やLGBT問題は二の次になってしまうのです。
リベラルが持つ価値観は忘れてはいけないものです。けれども、そういう問題にばかり目を向けていては、足元の自国の社会分断が広がるばかりです。両者が相互理解を深め、お互いの価値観や考え、生き方を尊重しあったうえで納得できる問題解決方法を探るべきなのでしょう。
イギリスだけではない社会の分断
と、ここまではイギリス社会について書いたのですが、このような分断は各国で起きていることです。どの国でもグローバル化してしまうと国や地域、コミュニティといった従来の帰属意識を持たない「どこでも族」が力をにぎるようになり、そういうエリートに反感を抱く「ここだけ族」が生まれます。そういう人たちがポピュリズムに影響されたり、トランプのような「救世主」の言うことを信じたりするのでしょう。
そういう分断が起きず、まとまった社会というのは、たとえば北欧諸国のように規模が小さく、人種・言語・宗教・文化などの面で比較的統一されている国が多いようです。米国のような大国ではまとまるものもまとまらないのも自然でしょう。また、英語圏の国というものはどうしてもグローバルになりがちです。例えば福祉政策を導入するために高所得者の税金を上げると、富裕層が国外逃亡してしまうということもあります。国外で活躍できる機会が多いし、外国人がたくさん入ってもきます。
日本の「どこでも族」「ここだけ族」
日本ではおもに、「どこでも族」は東京に「ここだけ族」は地方に住んでいるという図式になっています。その分断は存在しますが、人種、言語、文化などの面で日本は比較的統一されているので、イギリスやアメリカのようにはなっていません。エリートと庶民の分断がそれほどはっきりしていないことは日本の大きなメリットであり、強みでもあります。
日本という国への国民一般の帰属意識が強いことは時として問題となることもありますが、国がまとまり、人材や経済流出というリスクが少ないという利点があります。英米人に比べれば、日本の「どこでも族」はキャリア構築や税金逃れのために日本を捨てることは少ないでしょう。
とはいえ、日本でも「どこでも族」と「ここだけ族」の格差は広がってきつつあるし、これからもそうなっていくでしょう。特に教育格差や経済格差が大きな問題になっていくだろうということが懸念されます。そうならないように、やはり日本でも「どこでも族」と「ここだけ族」の交流を深め、お互いの相互理解を促進し、価値観を共有できるようにしていくことが、社会基盤を強くするうえで大切になってきます。
移動制限の影響
さて、2020年はパンデミックによる移動制限で「どこでも族」にとっては試練の年となりました。国境を越えての移動が難しくなり、これまではジェットセッターだった「どこでも族」までロックダウンのせいで「ここだけ族」の生活をすることになったのです。これまでのように仕事で海外出張をしたり、ホリデーであちこちの外国に行ったりといったことができなくなった半面、地元に根付いた生活も捨てたものじゃないと思う人も出てきたようです。
これまでは毎日通勤していたのに在宅勤務になったことで、馴染み深い地元のお店に歩いて買い物に行ったり、これまであまり付き合いがなかった近所の人たちと助け合ったりという人もいます。
実は、我が家もそうなのです。街の魚屋やパン屋で買い物をし、ロックダウン中閉鎖しているイタリアンレストランをテイクアウトで応援したり、店舗が開いている間はAmazonではなく街の本屋で本を買うようにしたり。また、遠出をしないので、家から歩いて行ける地元の公園や野原に散歩にも行きます。
このようになると「どこでも族」にもこれまでは希薄だった地域への愛着が出てきます。こうして「どこでも族」が「ここだけ族」化して、お互いの相互理解が深まっていくのでしょうか。
それとも、ワクチンの普及が広まり、だんだんと様々な行動制限が緩和されることで、また元の生活に戻るのでしょうか。それにはまだしばらく時間がかかるでしょうし、もし戻ったとしても前と全く同じにはならない気がします。
経済や情報がいくらグローバル化しても、人間の体というものは何千年も変わらないまま、土地にへばりついて生きるしかないんだなということが、コロナのおかげでよくわかりました。
そして日本に帰ったり、ギリシャの島にホリデーに行ったりはできないけど、近所を散歩して見上げる渡り鳥の飛ぶ青い空が、じゅうぶん美しいということも。
参考書籍: