日本に一時帰国中、広島平和記念資料館に行きました。昔、小学校からの社会見学で行って以来数十年ぶり。それ以降行ってなかったのには理由がありますが、今回行ってよかったと思いました。新しくなった展示が印象的で、日本人や世界中の人たちに見てもらいたい資料館だと感じたので、紹介します。
広島平和記念資料館の展示
展示はまず、長い廊下にはられた、原爆投下前の広島の白黒のパノラマ写真で始まります。楽しそうにそぞろ歩く人でいっぱいの、にぎやかな街並みやこぼれるばかりの笑顔が並ぶ小学生の記念写真も。戦中とはいえ、原爆前の広島にたくさんの人たちが生き生きと普通の生活を送っていたことを想像させます。
その後に、同じように白黒のパノラマで被爆後の広島が映し出されています。一面焼け野原で、原爆ドームなどコンクリート製の建物がわずかに残っているだけの暗澹たる風景は、広島の原爆について語られるたびに何度も目にしてきたものです。それが、最初に見た原爆前の広島と対比することで、原爆の破壊力と凄惨さについてより強い印象を与えます。
そして、原爆投下の広島の様子が街の模型の上にコンピューターグラフィックで再現されていました。上空から一発の爆弾が落ちていき、一瞬にして街が破壊される様子を鳥瞰的な視点からリアルに見ることができます。
そのあと、被爆した人達ひとりひとりの具体的な記録が連なります。ぼろぼろになった衣服や焼け焦げた三輪車や炭になった弁当箱などの遺品と共に、原爆の犠牲となった人たち、そして残された遺族の思い出などが語られています。その一人一人がどのような人であったのか、どういう状況で被爆したのかなどの簡潔な説明と共に、残された家族の思いもつづられていました。
原爆の被害というと、原子爆弾の破壊力についてとか、被爆者が12万人とか、マクロで見た全体像としての記録について語られがちですが、その12万人のひとりひとりに、それまで生きてきた生活があり、愛し愛された家族があり、全うできなかった将来があったのだということについて身近に感じることができるものでした。
さらに「生き残った」人々の苦悩についても綴られています。愛する人を原爆で亡くし自分は生き残ったという思い、被爆後目立った負傷はなかったのに放射線が長い時間をかけて身体をむしばんでいくことへの苦しみや不安、さらには被爆者ということで受けてきた差別や偏見、被爆後思うように働けなくなったことで貧困に陥ってしまった家庭についてなど。
多くの被爆者がすでに亡くなり、生存者も高齢となって、その体験を直接聞けなくなりつつある今、このような一人一人の顔となりがうかがえるストーリーを残すことに意義があると思いました。
簡潔に語られた被爆者それぞれの物語に思いをはせ、想像を巡らせたり、それが自分だったらどうしただろうと思ったりして、ひとつひとつのエピソードが重く心にのしかかります。英語の音声ガイドを借りて聞いていた18歳の息子は、展示を見ながら一人一人のストーリーを聞いていて泣きそうになったため、音声ガイドを何度も止めなくてはならなかったと、後でこっそり話していました。
重い気持ちを抱いて展示室の暗がりから明るい回廊に出ると、大きな窓から平和記念公園の緑が見えて、目と心を休めてくれます。その窓からは原爆ドームや平和記念碑も見えるし、そのまわりには見事に回復した広島の街が拡がっています。この回廊には椅子も置いてあって、外を眺めながら、ゆっくりとそれまで見てきた展示について思いを確かめることができる静かな空間となっています。
そして、そのあとに核爆弾や核兵器についての科学的、歴史的な説明を中心とした展示があります。この部分は、それまでの被爆者の個人的な物語とは異なり、マクロから見た事実や史実に基づき、客観的な情報が淡々と語られ、核爆弾の仕組みや放射線が人体に及ぼす影響などについて頭で理解するような展示方法。原爆の開発から投下に至るまでの歴史については、アメリカが戦後ソ連の勢力の拡大を阻止することをも考えていたことなども淡々とつづられています。こういう説明の仕方は米国などでは一般的ではないようなので、米国人はじめ、世界中の人々に見てほしいと感じました。
その後に、核兵器の危険性、原子爆弾の脅威について、科学的な説明。原子爆弾の瞬発的な破壊力についてだけでなく、放射線で人体を長期間にわたってむしばんでいくという非人道性について、客観的にデータを交えて理解できるようになっています。
そのあとで、戦後の核開発と、それに対する核拡散防止や核兵器廃絶への取り組みについて語られます。世界中で行われている核兵器廃絶のための活動はもちろんですが、広島が独自で行ってきた被爆者救済のための運動や、広島が受けた原爆被害と平和を求める声を世界に発信してきた歩みも語られています。
展示順路についてですが、普通なら最初に原子爆弾についての客観的・歴史的な事実を列挙したあと被害の様子を見せるのではと思います。そうではなくて、最初に被爆者一人一人の物語を聞いてから「どうしてこんな悲惨な結果となった原爆投下が起こったのだろう?」と疑問がわいたところで、それについての説明があり、それではこれからどうするべきなのかと考える人たちに、このようなことを二度と起こさないための取組について知ることができるという流れになっています。
被害者の悲惨な状況について知ることは重要ですが、それについて自分は何もできないというやるせなさでつらくなるのも自然です。いけないとは思いつつ、その苦しさにふたをかぶせて忘れようとしてしまいがち。が、このような流れだと、原爆を二度と落とさせないために尽力してきた人たちの軌跡がわかり、自分でも何かできる、何かしようという気にさせます。
これまで原爆資料館に行かなかった理由
広島は実家のある山口県から近く、新幹線を利用すると1時間ほどで行ける距離です。広島にはこれまで何度も行っているのですが、この資料館には小学校以来訪れていませんでした。その理由は正直言ってこわかったからです。まだ遊ぶことしか知らなかった小学生の時に学校の社会見学で資料館に行った時のショックが大きく、その経験がトラウマのようになっていたのです。
忘れようとブロックしていたこともあってうろ覚えなのですが、その当時の資料館の展示は今回見たのとは違っていました。原爆投下後、重症を負った被爆者が苦しみながら街をさまよっている様子が実物大の人形を使って再現してあるのが衝撃的でした。それ以外のことはあまり覚えておらず、それからしばらくその展示について忘れられず、夜にうなされた思い出があります。あまりにこわかったので、とにかく忘れたいと思う気持ちが先立ち、それ以降は大人になっても資料館に行くことができなかったのです。
今回見た展示ではそのような人形はなかったのですが、直視できないような生々しい被爆者の写真や絵は一部にありました。けれども、それよりも被爆者一人一人のストーリーを語ることに重きをおいているように感じました。そして、ただ「こわい」という印象しかなかった時とちがい、被爆者の状況についてより理解できたし、自分と同じような普通の人たちが突然に受けた出来事について思いをはせることができました。
今回の広島訪問後、小学校の時同じように資料館に社会見学に行った姉や義兄と当時感じたことについて話したのですが、3人とも同じような思いを抱いていたということがわかりました。とはいえ、その気持ちをこれまで数十年間家族や友人と話し合うことすらできなかったのです。ショックだったということと共に、実際に原爆で無残に命を奪われたり、傷を負った人達への罪悪感もあったのだと思います。自分たちが受けたショックなど、被爆した人やその家族が受けた苦しみに比べればちっぽけなもので、そのことについては自分の心に閉ざしておくしかなかったのです。
2人とも、私と同じく、それ以来資料館には行ってないそうなので、案外、そういう人は多いのかもしれません。私もイギリス育ちの18歳の子供に見せておかなければという義務感のようなものがなければ、行かなかったかもしれないのです。アメリカほどではないにせよ、イギリスも第2次世界大戦の戦勝国である以上、学校の歴史教育で勉強したり、一般国民が持っている原爆投下に対する視点は偏っているのではないかと思ったからです。広島の原爆投下については「第2次世界大戦を終わらせるために仕方がなかった」というのが欧米諸国の一般的見解のようです。そういう外国人に広島平和記念資料館をぜひ訪れてもらいたいと思います。
もちろん日本人も。